月別 2015年6月
とき:2015年6月25日(木)∼26日(金) 於:岡山
ところ:宣伝①25日(木)12時15分∼岡山駅西口さんすて
②26日(金)7時30分∼倉敷駅前
支援集会は25日(木)18時30分∼勤労者福祉センター4階大会議室
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と き:2015年6月12日(金)12:15~
ところ:中国電力岡山支社周辺
概 要
イレブンアクション岡山は定例の中電前抗議行動を行いました。最高気温が30℃を超える日中、本日で行動は141回目を迎えました。今回の行動には37人が参加し、原発ゼロを訴えました。
デモ行進出発前に伊原潔さんが情勢報告を行い、「川内原発の再稼働が決まったと言われていたが、書類の不備や誤記が多数見つかったため、すでに終えた検査を一からやり直すことが決定した。私たちにとっては朗報なこととして、夏の再稼働は絶望的だ」と話しました。
また、原発から発生する放射性廃棄物の最終処分施設の建設地を巡り、岡山県も候補地とされているという情報があります。補助金を餌に住民の生活を危険にさらす動きがあることも視野に入れた運動を展開していかないといけません。
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とき:2015年6月9日~11日
ところ:中国地方県庁と労働局
全労連中国ブロックは最賃の地域間格差の是正や賃金審議会の公正な委員の選任、公契約条例と地域経済再生などを求めて中国地方の労働局と県庁を訪ね、要請行動を行いました。
特徴的な取り組みや気になる対応をされた県や労働局を紹介して報告とします。
鳥取県の労働局は全国的にも「鳥取方式」と言われていますが、最賃審議会への意見陳述や傍聴などで一切の制限がありません。ただ、委員の選任排除だけは共通しています。全任の公益委員の先生のご尽力があっての事だと思いますが、この進んだ取り組みを全国で実現したいものです。また、県でも公契約運動でも条例化がされていない状況はありますが、下請けを2次までしか認めないとか、県退共の証紙などについてもきちんと調査されています。進んだ県だと感心しました。
岡山県との時間調整ができず労働局のみの要請となりました。意見陳述できているものの傍聴に制限があり、審議会の内容が公開されていません。密室審議です。委員の選任も公正ではありません。ただ、室長さんとの率直な意見交換ができたと感じました。室長さんもまじめに対応してくれました。
広島県の労働局では室長さんが「国の制度、選任についても意見は差し控える」などと話し合いをする姿勢を示されず、「しゃくし定規なものの言い方に怒りを覚える。本当に県民の生活や賃金に責任を持とうとしているのか疑問だ」と怒りにまかせてつい発言してしまいました。ただ、県の対応は真摯なもので「労働局に対しても意見を言います」と返事があり、「ほう∼!」と歓心させられました。
山口県では、「言いたいことを述べた」要請となり、県の審議官の返事は残念ですが何を言われているのかさっぱり分かりませんでした。労働局の対応は他局の話をして、山口労働局が如何に遅れているのかを強調した話し合いとなりました。
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とき:2015年6月8日(月)17時30分~18時10分
ところ;岡山駅西口さんすて
戦争法反対宣伝4回目となりました。昼に憲法宣伝をしたばかりでしゃべり疲れましたが、再びマイクを握りました。14人が参加して26筆の署名でした。
生憎の雨で傘を持つ人も多く、反応はいまいちでした。それでも署名を続けると立ち止まって考えて署名をしてくれた人。戦争はいけん、岡山空襲で逃げ回ったなど戦争に関わる声は尽きることがありません。若い人の声を大切にしたいですね。若者が戦争に行くような時代が絶対に来ないように頑張ります。6月24日は市内の民主勢力が総結集して総行動を展開。7月11日にも市民デモを企画しました。すでに中区では地域デモを始まっています。北区では14日にデモ行進が行われます。倉敷では6月4日に200人が参加してデモ行進。笠岡でも宣伝やデモ行進が始まり運動は広がりを見せています。廃案にするためにもさらに運動を大きく広げましょう。
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とき:2015年6月5日(金)
ところ:中国電力岡山支社周辺
第140回となった金曜アクション。あいにくの雨で出足も悪く、カッパを着てのデモ行進となりました。原発被災者への賠償打ち切りで被災者や営業をしている人は怒り心頭です。政府が東電を指導して止めさせようとしているのは見え見えですが白を切っているのが政府です。また、東電は福島第2原発再稼働についても廃炉と言わず、「国のエネルギー政策を無視することはできない」と他人事のようです。これだけの事故を起こしていながら国の支援を受けて、高飛車な態度ですが、福島県民の怒りを県議会や県知事にも向けていただいて、県民挙げて原発再稼働NO!を突き付けてほしいものです。
さて、伊方原発再稼働、川内原発再稼働を許さない集会が行われました。(記事は6月9日記載)イレブンアクション岡山は伊方の集会へ。24人が参加しました。全体で2500人です。(主催者発表)、川内の集会は1万5千人と知りました。まだまだ、運動はこれからです。継続しながら、広がるようにもっともっとみんなで頑張りましょう。
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と き:2015年6月4日(木)18:30~
ところ:岡山勤労者福祉会館
概 要
全労連が行う労働組合入門「わくわく講座」の開講式を行いました。長久啓太さん(岡山県労働者学習協会)を講師に招き、「世の中は、変えられる!学んでつかもう、揺るぎない確信」というテーマで記念講演を行いました。開講式には13人が参加しました。
長久さんは、「労働基準法には『労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない』とある。労働組合は人間らしい生活のために活動する組織だ」とまず初めに強調しました。人たるに値する生活について、「生活には生存を保つ側面とよりよく生きるという二つの側面がある。生活にゆとりがあれば『よりよく生きる』ことができる。日本は生活費にやたらとお金がかかる国だ。お金が全てというわけではないが、お金がなければゆとりのある生活はできない。ではお金をどうやって手に入れるか。大半の人は労働による所得として得ている。誰かに雇われて働く人のいわゆる雇われ組のことを労働者という。労働者は、労働力を提供することで対価として賃金を得る。しかし、低賃金労働、不安定雇用など生活費だけでカツカツの人がいま増えている」と課題を指摘、「労働者は一人で会社と労働条件の交渉をすることはできるだろうか。法律上は労働者と使用者は対等とされている。しかし、労働条件を決めるのは使用者側だ。就活の時に労働条件の提示をすることはできない。しかし、労働者は圧倒的に数が多い。『みんなで』を武器にすれば対等に近づける。雇用主にモノが言える。貧困・格差が拡大しているのが今の社会。今こそ労働組合の出番だ!」と最後に参加者を鼓舞しました。
今回の開講式の受講者数は少なく、労働者教育、次世代育成において解決すべき問題はまだまだ多いというのが現状です。しかし、参加者からの感想はよく基礎教育を反復していくことの大切さを改めて確信しました。
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と き:2015年5月30日(土)~31日(日)
ところ:長野県
概 要
全労連青年部は恒例のユニオンユースアカデミーを今年も開催しました。参加者は全国各地から50名が参加しました。快晴と天候に恵まれた2日間となりました。また、善光寺御開帳が最終日ということもあり、たくさんの人で賑わっていました。
一行はまず、無言館を訪れました。無言館は上田市にある美術館で、戦没画学生たちの遺作となった絵画・作品・絵道具・手紙などを専門に収蔵展示しています。途中まではおしゃべりしたり、にぎやかだった一行ですが、芸術の才能を花開かせる前に戦争で死んだ画学生の作品を前に、真剣な面持ちで鑑賞しました。
その後、宿泊先のホテルに移動し、満蒙開拓団語り部による講演会が開催されました。講師は寺沢秀文さん(満蒙開拓記念館・副館長)と大石文彦さん(元開拓団員)の2人です。
寺沢さんによると、「日本から開拓団員として旧満州に約27万人が渡っている。背景には、日本国内の貧困があり、国は貧困解決として人減らしをしようとした。そのことが満州国を防衛したいという軍部の思惑と一致。当時、日本の農村は子だくさんで、生糸値の暴落や冷害が見舞っていた。『満州に行けば20町歩(東京ドーム約4個分)の土地の地主になれる』とのうたい文句で開拓団員の募集が行われ、農村部だけでなく、東京などの都会からも満州へ送られている。満蒙開拓は国策として進められ、1936年~56年の20年間で100万戸、500万人の開拓団を満州に送り込もうとした。しかし、計画は順調には行かず、強制的な募集、送出へと変化する。1945年8月9日、中立条約を破棄してソ連軍が満州に侵攻してきた。しかし、日本軍は満州から早くから撤退しており、そのことを団員に知らせることもなく、橋や鉄道も爆破した。開拓団員は完全に取り残されてしまう。そこから、悲惨な逃避行が始まり、集団自決、残留孤児、残留婦人などが発生することになった。終戦後、政府は満州に取り残された人たちを救出することをせず、『現地に留まって生きよ』との方針を打ち出している」と歴史的経緯を説明しました。
改めて満蒙開拓団とは何であったのかについて、「中国からみればまぎれもない侵略だ。その現実を直視してもらいたい。開拓団員の人たちの苦難、涙、思いも語り継がれなくてはいけないが、同時に加害と被害という両面を考えることが大切だ。私たちが運営している記念館は、たとえ不都合な真実であってもありのままを示している。例え国の行っていることであろうと、おかしいことには『おかしい』と思える感性を持つ賢い国民出ないといけない。過去の史実に向き合い、その感性を育てることを記念館は目的にしている」と訴えました。
続いて、大石さんは自身が旧満州に渡った経験から話され、「70年前の長野県はほとんどがシャッター通り化していた。もともと物資不足であるにもかかわらず、戦地に輸送していたという背景がある。長野県は開拓団員が全国で一番多いそれは、大政翼賛会による指導があったためだ。当時、信濃教育会があり、校長・教頭を筆頭に戦争教育を徹底していた。婦人会をはじめ満州はいいとこだけしかけ、それを拒めば非国民扱いだ。私の父は初めは満州行を断っていたが、しぶしぶ引き受けざるを得なかった」と一家が満州に行くことになった経緯を話し、「到着後、山林原野を開墾するのだろうと思っていたが、家も農地もすでにあった。これらは現地の中国人たちの家や農地を安い値段で買叩き、強制的に追い出した結果だ」と満州の実態を具に話しました。1945年ソ連侵攻によって多くの開拓団員がとり残されました。その時のことについて大石さんは、「満州からの逃避行は悲惨なものだった。当時は、捕まるくらいなら死を選べという教育が徹底されていたため、多くの人が服毒自殺し、集団自決もあった。また、現地の中国人は日本人を恨んでいたため、日本人襲撃は後を絶たなかった。私と姉は母と一緒に徒歩で逃げて何とか生き延びることができた。途中で親切な中国人に匿ってもらうことができ、帰国までそこで生活することに。しかし、幼い私は日本語を忘れていく。そこで、母が日本語の歌を歌ってくれた。8年後、ようやく帰国することができたが帰国してからも苦難が絶えなかった」と述べました。
参加者からは、「今まで学校習ってきた歴史は一般常識的なもので試験のために学ばされていたように思う。歴史を振り返り次に生かすのが歴史を学ぶことの意義だ。今回、今まで知らなかった事実を聞けて、新たに自分の考えをつくることができた」という感想があり、「この間の国会の審議を聴いていると戦前ではないかと思う。2人はどう思いますか」という質問がありました。それについて2人は、「国際的なことを考えれば、ある程度防衛を整えることは必要だ。しかし、国民や労働組合が関心を持たなくなると国家はとたんにとんでもない方向に進んでいく。本当に正しいことなのかと常に疑問視し、監視しないといけない」と述べました。
講演会終了後、交流会が開かれ参加者は思い思いに交流を楽しんでいました。
2日目は松代大本営跡地を見学しました。ガイドの説明を受けながら、2グループに分かれて見学しました。ガイドの方によると、「松代大本営跡地はもともと何の補修も保全もされていなかった。しかし、長野県の高校生が沖縄戦について学び、松代大本営を保存し、後世に伝えて欲しいと長野県に要請した。その結果、松代大本営の保存が決まった」とのことです。
トンネル採掘作業について、「トンネル採掘作業はすべて人の手で行われ、労働者の多くが朝鮮人。現地から強制的に連れてこられた人たちだ。ダイナマイトをとりつけるなどの危険な作業をさせられ、爆発に巻き込まれたり、不発弾が採掘途中に爆発するようなこともあった。また、朝鮮人労働者の食事は非常に劣悪で、『こうりゃん』という家畜の餌にしかならないようなものを食べさせていた。消化に悪く重労働から体調を崩す人が多かったが、それでも強制的に働かされた。まさに奴隷だ」と説明し、「沖縄戦により25万人が亡くなった。その内半数以上は沖縄県民だ。戦時中、日本は本土でアメリカを迎え撃とうと計画していた。もし、日本が降伏することがなければ沖縄と同じような悲劇が繰り返されたかもしれない。当時の日本軍は本土決戦の準備を行うため、沖縄を捨て石にしたのだ。しかし、松代大本営は完成することなく終戦。採掘作業は無駄になったがそれでよかったのだ」と訴えました。
満蒙開拓団、松代大本営建設の経験から日本人は何を学べばいいのでしょうか。先に真実を知った者は次の人に伝えていく社会的責任があります。おかしいことにはおかしいとはっきりと声を発することが大切です。
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