岡山県労働組合会議

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連想分類語  無言館

と き:2015年5月30日(土)~31日(日)

ところ:長野県

概 要

 

全労連青年部は恒例のユニオンユースアカデミーを今年も開催しました。参加者は全国各地から50名が参加しました。快晴と天候に恵まれた2日間となりました。また、善光寺御開帳が最終日ということもあり、たくさんの人で賑わっていました。

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一行はまず、無言館を訪れました。無言館は上田市にある美術館で、戦没画学生たちの遺作となった絵画・作品・絵道具・手紙などを専門に収蔵展示しています。途中まではおしゃべりしたり、にぎやかだった一行ですが、芸術の才能を花開かせる前に戦争で死んだ画学生の作品を前に、真剣な面持ちで鑑賞しました。

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その後、宿泊先のホテルに移動し、満蒙開拓団語り部による講演会が開催されました。講師は寺沢秀文さん(満蒙開拓記念館・副館長)と大石文彦さん(元開拓団員)の2人です。

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寺沢さんによると、「日本から開拓団員として旧満州に約27万人が渡っている。背景には、日本国内の貧困があり、国は貧困解決として人減らしをしようとした。そのことが満州国を防衛したいという軍部の思惑と一致。当時、日本の農村は子だくさんで、生糸値の暴落や冷害が見舞っていた。『満州に行けば20町歩(東京ドーム約4個分)の土地の地主になれる』とのうたい文句で開拓団員の募集が行われ、農村部だけでなく、東京などの都会からも満州へ送られている。満蒙開拓は国策として進められ、1936年~56年の20年間で100万戸、500万人の開拓団を満州に送り込もうとした。しかし、計画は順調には行かず、強制的な募集、送出へと変化する。1945年8月9日、中立条約を破棄してソ連軍が満州に侵攻してきた。しかし、日本軍は満州から早くから撤退しており、そのことを団員に知らせることもなく、橋や鉄道も爆破した。開拓団員は完全に取り残されてしまう。そこから、悲惨な逃避行が始まり、集団自決、残留孤児、残留婦人などが発生することになった。終戦後、政府は満州に取り残された人たちを救出することをせず、『現地に留まって生きよ』との方針を打ち出している」と歴史的経緯を説明しました。

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改めて満蒙開拓団とは何であったのかについて、「中国からみればまぎれもない侵略だ。その現実を直視してもらいたい。開拓団員の人たちの苦難、涙、思いも語り継がれなくてはいけないが、同時に加害と被害という両面を考えることが大切だ。私たちが運営している記念館は、たとえ不都合な真実であってもありのままを示している。例え国の行っていることであろうと、おかしいことには『おかしい』と思える感性を持つ賢い国民出ないといけない。過去の史実に向き合い、その感性を育てることを記念館は目的にしている」と訴えました。

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続いて、大石さんは自身が旧満州に渡った経験から話され、「70年前の長野県はほとんどがシャッター通り化していた。もともと物資不足であるにもかかわらず、戦地に輸送していたという背景がある。長野県は開拓団員が全国で一番多いそれは、大政翼賛会による指導があったためだ。当時、信濃教育会があり、校長・教頭を筆頭に戦争教育を徹底していた。婦人会をはじめ満州はいいとこだけしかけ、それを拒めば非国民扱いだ。私の父は初めは満州行を断っていたが、しぶしぶ引き受けざるを得なかった」と一家が満州に行くことになった経緯を話し、「到着後、山林原野を開墾するのだろうと思っていたが、家も農地もすでにあった。これらは現地の中国人たちの家や農地を安い値段で買叩き、強制的に追い出した結果だ」と満州の実態を具に話しました。1945年ソ連侵攻によって多くの開拓団員がとり残されました。その時のことについて大石さんは、「満州からの逃避行は悲惨なものだった。当時は、捕まるくらいなら死を選べという教育が徹底されていたため、多くの人が服毒自殺し、集団自決もあった。また、現地の中国人は日本人を恨んでいたため、日本人襲撃は後を絶たなかった。私と姉は母と一緒に徒歩で逃げて何とか生き延びることができた。途中で親切な中国人に匿ってもらうことができ、帰国までそこで生活することに。しかし、幼い私は日本語を忘れていく。そこで、母が日本語の歌を歌ってくれた。8年後、ようやく帰国することができたが帰国してからも苦難が絶えなかった」と述べました。

参加者からは、「今まで学校習ってきた歴史は一般常識的なもので試験のために学ばされていたように思う。歴史を振り返り次に生かすのが歴史を学ぶことの意義だ。今回、今まで知らなかった事実を聞けて、新たに自分の考えをつくることができた」という感想があり、「この間の国会の審議を聴いていると戦前ではないかと思う。2人はどう思いますか」という質問がありました。それについて2人は、「国際的なことを考えれば、ある程度防衛を整えることは必要だ。しかし、国民や労働組合が関心を持たなくなると国家はとたんにとんでもない方向に進んでいく。本当に正しいことなのかと常に疑問視し、監視しないといけない」と述べました。

講演会終了後、交流会が開かれ参加者は思い思いに交流を楽しんでいました。

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2日目は松代大本営跡地を見学しました。ガイドの説明を受けながら、2グループに分かれて見学しました。ガイドの方によると、「松代大本営跡地はもともと何の補修も保全もされていなかった。しかし、長野県の高校生が沖縄戦について学び、松代大本営を保存し、後世に伝えて欲しいと長野県に要請した。その結果、松代大本営の保存が決まった」とのことです。

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トンネル採掘作業について、「トンネル採掘作業はすべて人の手で行われ、労働者の多くが朝鮮人。現地から強制的に連れてこられた人たちだ。ダイナマイトをとりつけるなどの危険な作業をさせられ、爆発に巻き込まれたり、不発弾が採掘途中に爆発するようなこともあった。また、朝鮮人労働者の食事は非常に劣悪で、『こうりゃん』という家畜の餌にしかならないようなものを食べさせていた。消化に悪く重労働から体調を崩す人が多かったが、それでも強制的に働かされた。まさに奴隷だ」と説明し、「沖縄戦により25万人が亡くなった。その内半数以上は沖縄県民だ。戦時中、日本は本土でアメリカを迎え撃とうと計画していた。もし、日本が降伏することがなければ沖縄と同じような悲劇が繰り返されたかもしれない。当時の日本軍は本土決戦の準備を行うため、沖縄を捨て石にしたのだ。しかし、松代大本営は完成することなく終戦。採掘作業は無駄になったがそれでよかったのだ」と訴えました。

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満蒙開拓団、松代大本営建設の経験から日本人は何を学べばいいのでしょうか。先に真実を知った者は次の人に伝えていく社会的責任があります。おかしいことにはおかしいとはっきりと声を発することが大切です。

 

 

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