岡山県労働組合会議

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日付 2017年11月29日

とき:2017年11月29日(水)17時30分~

ところ:岡山駅西口さんすて

11月29日、憲法宣伝に6人が参加、署名も6筆でした。雨混じりの夕暮れ時。帰宅を急ぐ人がいます。憲法宣伝参加者はいまいちでしたが、心で負けると運動も負けると奮起して訴えました。憲法に立ち返り、今の政権の下で人権が保障されているのか怪しい。社会保障も教育もおかしい。憲法違反の法律が強引に成立させられている一方で、モリカケ問題など税金を好きに使って、お友達にも夫婦でつぎ込んでいる首相夫妻の報道が相撲協会の騒動で隠されている。改憲は許せないと声を上げようと訴えました。


宣伝も終わりにかかったころに警官が来て何かを仲間に言っています。どうしたのかと聞くと苦情があったというのです。何かと聞くと「宣伝がうるさい」と言うことでした。「何も聞いていませんが、そんなに大きな声でしゃべったつもりもなく、うるさいのであればボリュームを落としますよ」と話すと、「私たちも苦情がなければ来ない」と警察も言い訳。届け出も出している。うるさくしていない。「嫌がらせだとは言わずに、暗にそうだ」と訴えました。しかし、警察が来たことで訴えの時間を削られました。確かに文句を大声で言いながら過ぎていく人がいました。仲間に聞くと「うるさくいうあばちゃんもいた」と言うことです。妨害には気を付けたいものです。


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とき:2017年11月29日(水)14時30分~

ところ:岡山地裁

11月29日(水)、安保法制違憲訴訟の傍聴に出かけました。第2回の時、原告を代表して意見陳述をさせていただきました。今日は傍聴席に着けましたが空席もあり、第4回ともなると原告側も少し熱が冷めてきたように感じました。改憲に反対する運動でも同じですから当然と言えますが、ここら辺が運動の難しいところです。

さて、今日は4人の方の陳述です。毎回、裁判所がよく認めてくれるなと思っていると、後で河原団長から実が制限されそうだったと聞きました。そこはさすがに団長です。しっかりと裁判長を説得したそうです。

最初の陳述は民話で良く知られる立石さんでした。民話の研究の中で戦争に関わるお話をよく聞いたそうです。それを本にしたとも。「息子は帰ってきた」「戦場の中」「夢の中の息子」などですが、人の肉を食った話も聞き驚いたそうです。ニューギニア戦線の話です。敵の肉ではなく、同じ部隊の兵隊の肉です。あまりの驚きに食事も喉を通らなかったそうです。あまりのひもじさに芋を盗み、上官から断食死刑を言い渡され、死んでいった兵士の話も聞いたそうですが、それが英霊として靖国神社に奉られていると思うと、戦争の残酷さ悲惨さに胸が痛むと話しました。安保法制によって再び夜も眠れなくなった。憲法を変えようとする時代は民話の活動さえ抑圧されるのではないかと思う。平和な社会をいつまでも壊してはならないと話されました。

2人目に意見陳述をされた大槻さんは昭和23年真庭市に生まれました。子どもの頃にいきなり戦闘機が爆音とともに低空飛行してきた。飛行士の顔がはっきりと見えた。怖かった。今でも覚えている。軍事兵器の怖さを最初に経験した時の印象です。小学生の時に日本原演習場で軍用車両が走っているのを見たとき、また、戦争かと驚いた。広島の映画を見た時もショックだった。原爆と焼け残った街に黒焦げの死体。戦争に行った世代は食べるものもなくなかった。沖縄ではサトウキビ畑を逃げ回ったと聞く。イラク戦争の時は外国の戦争だと思っていたが、安保法制が成立した時、今度は自分のことだと思った。戦争の恐怖がよみがえってきた。同じ時代の自衛隊員が殺されるかもしれない。子どもか孫の時代だろうか?毎日が息苦しい。剣によって闘うものは剣によって滅ぶという諺がある。平和憲法と安保法制は相容れないと話しました。

3番目の柏菅セツ子さんは、1942年12月に卒業して軍事訓練を受けたお父さんのことを話されました。少尉だったそうです。岡山空襲の時も父はいなかった。父は広島の原爆で被爆し背中にケロイドを負っている。戦後も戦争のことは話さなかった。8月6日のニュースも見ない。見ると悲惨な原爆の絵が目に浮かぶからだと聞きました。そんなお父さんが初めてセツ子さんに原爆の話をしたのが古希を迎えた時だそうで、原爆が落ちた時、陸軍本部は焼け、鉄道の線路伝いに歩いたそうだ。次第に人の数は少なくなり、最後は自分だけ残った。一人だけ生き残ったという気持ちが70歳の父に重く伸し掛かっていたと話しました。それでも戦後は教員を続け、戦争に人を送らなくて幸せな人生だったと話す父の言葉が戦争のむごさを物語っている。セツ子さんは保育の専門学校を卒業後、保母として旭川荘で働いたそうです。40数名が入所されていたそうですが、慢性疾患を抱えながら障害者の運動に関わり、ノンステップバスの運動もされました。人権は運動しなければ保障されないと知った瞬間です。民主主義を信じて幸せに生きてきたが9条を変えて戦争する国になるなんて納得できない。被爆2世の会に入って戦争はダメだと訴えている。大切にしてきた人たちを脅かしている。私たちは精神的苦痛を受けていると訴えました。

4番目は今岡さんです。1950年に真備町に生まれました。岡大の法科に入学しました。したがって、憲法への特別な思いがあると言います。3人の子どもさんがいます。奥様の父親は兵役を落ちて、戦後シベリア送りになった時列車から逃げたそうです。広島県の呉に努め、海軍にいた義母と一緒になったそうです。8月6日の朝礼の時、西の空は明るくなったのを覚えていました。当時広島にいた義父と子どもはそのまま帰ってこなかった。原爆のことが毎年思い出され、国に殺されたのだと思うようになりました。1950年に日本の憲法を生かそうとした朝日訴訟を知りました。終戦真直の沖縄線のことを知った時は足が震えたそうです。旭川荘に勤め障碍者医療に携わってから、自己意識のない人には人権はないと言われました。人差し指しか動かない人が、PCによって意思表示ができる社会になったが、戦争になれば障害者の人権は無くなるだろう。憲法を学ぶ中で戦争への怒りも増してきた。また、同じことがと思う。障害者家族の苦しみは繰り返させてはいけない。心が痛むと話しました。いつもの飄々とした今岡さんの知らない側面です。

陳述後の集会で違憲訴訟が全国24の地裁で、21の裁判が争われていると聞きました。原告団は7千名いるそうです。東京の裁判の様子が語られました。先日、東京で違憲訴訟を闘っている弁護団の集会があったそうです。どこでも証人の尋問を削ろうとする動きがあるそうですが、そうはさせまいとする弁護団の奮闘も聞きました。岡山弁護団の大本弁護士が、今回の裁判を人格権の侵害として闘っていると聞きました。人格権についてもう少し勉強してみようと思います。(傍聴したメモにもとづいてまとめました。聞き違いがあるかも分かりません)


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