岡山県労働組合会議

はい、岡山県労会議です。086-221-0133

日付 2017年8月7日

と き:2017年8月4日(金)12:15~

ところ:中国電力岡山支社周辺

概 要

 

原発ゼロを目指すイレブンアクション岡山は、20人が参加して245回目の抗議行動を行いました。

東京電力福島第1原発事故で全町避難が続く福島県双葉町は、放射線量が高い「帰還困難区域」の一部について2022年春ごろまでに避難指示を解除し、住民の帰還を目指すことを明らかにしました。町域の96%を占める帰還困難区域に再び人が住めるようにする「特定復興再生拠点」(復興拠点)の認定へ向け、国に申請する計画を策定しています。

復興拠点は、改正福島復興再生特措法で定められています。国は自治体が策定した計画を認定した上で、拠点の除染やインフラ整備を集中的に進め、今後5年をめどに避難指示を解除するとしています。

福嶋第一原発事故の原因は未だに究明されておらず、放射能汚染の拡大も防ぎきれていません。このような状況で帰還をすすめ、補助金を打ち切るなど無責任ではないでしょうか。


8月5日(土)~6日(日)、原水爆禁止世界大会青年バスツアーが企画され、38人の青年が参加しました。主催は「Peace Pieceおかやま」で今年で10年目となりました。

広島に到着すると、被爆証言の聴き取りを行いました。お話をしてくれたのは波田保子さんです。波田さんは、「日本は戦争に負けるのではないかという雰囲気が高まる中、山県郡にあるお寺に集団疎開することになった。7~8歳だった私は泣いてばかりだった。原爆投下された8月6日は、先生に連れられて竹藪の中に逃げた。その後、先生たちが家族調査を行うために広島市に入ることになり、広島の惨状を聴かされた。それ以来、私たちは毎日門前で迎えを待つようになった」と当時を振り返りました。父親が波田さんを迎えに来てくれたのですが、「はじめはそれが父だとはわからなかった。父は友人の家で原爆に合い、かなりの重傷を負っており、服は焼け焦げ、肌はやけどで腫れていたからだ。私を連れて帰る途中で父は体調を壊し、そのまま救護所に運ばれた。急性原爆症だった」と語りました。

波田さんは卒業後、高等学校に行きたかったのですが、家庭を支えるためにゴム靴工場に就職しました。「両親は日雇いで働いていたが、父は原爆の影響から体が思うようにならず、働けないこともあった。それでも、父としての威厳を保とうとする父が嫌いだった。早く家庭から抜け出したい思いもあり、5歳年上の男性と結婚した。夫とは何でも話し合え、私を受け入れてくれた。やっと、幸せな家庭が築けると思った矢先に、会社が倒産してしまった。苦労しながら、私は福島病院に勤務することができた」と当時の苦労を語りました。

波田さんは病院勤務をするようになってから社会に目が向くようになり、「福島病院には原爆症の患者がたくさん来る。すべての命は平等であることを痛感した。今だからこそ、父も原爆症で苦しんでいたとわかり、その時の父の気持ちがわかるようになった」と話しました。

最後に、「私は世界から核兵器がなくなるまで訴え続ける。核兵器禁止条約の批准を日本政府は否定している。これからは、批准するようにと署名を集めることが大切だ」と政治のあり方を変えることを訴えました。

感想交流では、「自分の父を受け入ることができなくなったのも原爆があったから。核兵器はあらゆる人間関係までも破壊する」「核兵器の恐ろしさを身をもって知っている被爆者の闘いが戦争を防いでいると思った」「波田さんは淡々と語るが、背景には様々な思いがあるはず」と語られました。

原爆の子象前で記念撮影

折り鶴を奉納

 


とき:2017年8月6日(日)13時~

ところ:広島県立総合体育館グリーンアリーナ

8月6日(日)、原水爆禁止世界大会・in広島はいよいよ最終日です。しかし、一参加者として大会の様子のメモを取る余裕はなく、頼まれごとに翻弄される半日でした。開会のあいさつを野口邦和大会運営員会代表が行いました。広島市長からのメッセージの代読がされました。被爆者を代表して田中煕巳さんがあいさつ。それぞれの言葉には核兵器禁止条約採択を歓迎し、日本政府にその批准を求める内容でした。野口さんは条約が謳っている条文から「核兵器が使用されない唯一の保障は廃絶すること。核兵器のあらゆる所持形態と威嚇を禁止している。これによって核の傘に入ることも違法とされた」と禁止条約の持つ生命力と権威を絶賛しました。国際会議宣言起草委員長の冨田宏治さんは案文を詳細に説明しながら「議論の過程で国際的な平和の波運動が提案された。これは世界の国々が同時刻にピースアクションを起こすことで、その波が世界を一周するというもので9月20日の禁止条約調印開始から26日の全面的廃絶のための国際デーまで毎日続ければ地球を7周することになる。各国が自国政府の条約批准に向けてあらゆる努力を尽くそう」と呼びかけました。来賓として出席された谷本睦志市民局長は松井一実市長のメッセージを代読しました。メッセージでは「絶対悪である核兵器は一瞬にして広島の街を焼き尽くし、被爆者は苦しんだ。しかし、世界から核兵器を無くすためにあらゆる努力を払ってきた。禁止条約を歓迎する。国際社会は廃絶こそこれからの世界のあり方とすべきだ。実効性を高めるためにも私たちの取り組みが必要。平和市長会議の議長として162ヵ国。7400の加盟都市と力を合わせる」と述べました。

被爆者の田中さんは「13歳の時に長崎で被爆。同じ年の若者は6000人が一瞬で亡くなった。私たちは禁止条約ができて最初で歴史的な最初の世界大会を迎えた。昨年運動を開始されてからこんなに早く条約ができるとは思わなかった。夢のようだ」と喜びを語りました。

海外代表はオーストリア外務省軍縮軍備管理不拡散局次長のマルチン・クリューガーさんは「鉄のカーテンの崩壊までオーストリアはNATOとワルシャワ条約機構の境に位置していた。それに伴う危険と脅威に晒されてきた。オタワ条約として知られる対人地雷とクラスター爆弾の撤廃に尽力してきた。オーストリアはすべての核兵器を禁止した」と話しました。

フィリピンのコラソン・ヴァルス・ファブロスさんは「フィリピンでは一度撤退した米軍が安全協定の下に帰ってきた。基地は市民の安全と環境に重大な被害をもたらす。砂金は若者が組織化運動を率いるようになった。独裁政治に対する全国運動という組織を立ち上げた。沖縄の闘い、被爆者の闘い、チェジュ島、グァム、ミンダナオの闘いに励まされる。市民が立ち上がっている」と日本の闘いを励ましました。

折り鶴プレゼンテーション、国際会議宣言を受けての決意表明、青年のトークセッションなど多彩な行事で大会は盛り上がり、一気にフィナーレを迎えました。

大会は長崎に引き継がれます。私も歴史的な大会に参加できたこと、発言の機会を得たことなど、思い出深い大会になりました。これで4日間の報告を終わります。


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