日付 2017年1月21日
とき:2017年1月21日(土)14時~
ところ:西川アイプラザ5階ホール
1月21日(土)、弁護士さんなどが中心となって活動しているハンセンボランティアゆいの会が主催するシンポジウムとコンサートが西川アイプラザで開かれ約200人が参加しました。
テーマは「負の遺産を未来へ残しませんか」と問いかける内容で、ハンセン病療養所施設保存に向けた取り組みの展望を療養所関係者(愛生園、光明園、愛生園園長)や将来構想をすすめる岡山の会の武久瀬戸内市長、建築工学博士で園内の建築物の調査をしている大月敏雄さんがシンポジストとして話されました。
最初にゆいの会を代表して弁護士の山本勝敏先生が「ハンセン病患者の隔離政策は1907年の「ライ予防法」に始まり、1996年まで90年間続いた。患者にとっては過酷で、理不尽な差別と闘ってきた歴史だ。ハンセン国家賠償請求訴訟は2001年に熊本地裁で隔離政策の過ちと国の責任を全面的に認める判決が出され確定した。同じような人権侵害を出さないように負の遺産として永久保存すべきと運動してきた。全国13ある国立ハンセン療養所の入所者は平均年齢が85歳になり、療養所の永久保存は待ったなしだ。何よりも患者を地域から排除する無らい運動を推し進めた責任が我々にある。ゆいの会は現在、地元の建築士や大工さんの協力で「十坪住宅」の補修・保存運動を始めている。今後の連携や協力がどんな形でできるのか考えたい」と話しました。
建築家の大月さんは「歴史的価値のある建築物という立場で十坪住宅を調べている。住宅は増築されているがこれも価値ある部分だ。そもそもどうして隔離が始まったのか?1898年に東京療育院の孤児の中にハンセン病患者がいて、それが契機になって初代園長の光田健輔氏が隔離を主張したことから国の療養所ができた」と説明しました。さらに、「愛生園の住宅は光田健輔がフィリピンなどに視察に行って考えた建物だ。その建物は当時、住民の寄付によるところが大きかった。十坪住宅は光田の思考の変遷を表している」と話しました。
瀬戸内の武久市長は「将来構想をすすめる会として6年、30回の会議を持ち議論してきた。世界遺産として認めてもらうには樹民の合意をはじめ、厚生労働省、県、市にもその価値を認めてもらうことが必要。最近は特別養護老人ホーム(50床)ができた。次に光ケーブルを引くために市も1千万円を出して、3千万で実現させた。どうやって世界遺産として残すのかで知恵をだした結果、永久保存としてエリアを決めて文化遺産として残す方向性を考えている。その延長線上に世界遺産がある。かなりハードルは高いは継続させるためのNPO法人の立ち上げも課題だ」と話しました。
武久市長は「負の遺産も影の部分はあっても、別の角度から光を当てれば見えないものが見えてくる」と施設保存の展望や意義を強調しました。
シンポジウム後に行われた沢智恵さんのコンサートでは、自身がライ療養所に関わった経験や日頃の療養所訪問が折り重なって、参加者に人権を考えるシンポジウムとして深い感動を与えました。
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