日付 2015年2月8日
とき:2015年2月7日13時~16時30分
ところ:勤労者福祉センター3階小会議室
地域人権問題研究集会の分科会が午後から開かれ、労働問題を考える分科会には16名が参加しました。今回の研究会では「山口県のマツダ自動車で働く派遣労働者が2008年に解雇され、これを違法な派遣切りとして17人(後に15人となった)が山口県労連の支援で裁判を闘い、勝利ともいえる和解を勝ち取った経過の中で、派遣労働の実態に迫ると同時に、憲法と労働組合の関係、雇用環境を守る国民と結びついた労働運動の強化など」が議論されました。経過の説明と問題提起は県労会議の伊原事務局長が行い、法的な背景は労働相談員をしている藤田さんが行いました。
伊原事務局長はマツダ裁判の経過や勝利的和解をもたらした要因について、「2008年のリーマンショックで自動車産業が減産を余儀なくされる過程の中で、マツダ自動車は1600人もの派遣労働者を切り捨てた。山口県労連が配るチラシを見て、野宿生活や車上生活を余儀なくされていた派遣労働者が労働相談をきっかけに、派遣法の違憲性や企業の身勝手さに怒りを持って立ち上がった。しかし、経済的にも不安定な派遣労働者が裁判を闘うのは困難。そこに労働組合の支援があった。全国から1万近い署名と募金が寄せられ、山口と広島の県労連が全面的に支援した。山口地裁は判決で13人に職場復帰を認める判決を出し、控訴となった広島高裁で15人を救済する和解となった。派遣法では、3年を超えて雇用を継続するのは違法であって、派遣先企業は派遣労働者を直接雇用しなければならない義務が生じる。しかし、実際にはこれが履行されたケースはない。その障害となったのが松下PDP最高裁判決で、特段の事情、つまり派遣先と労働者との契約はなくともあたかも契約が存在しているかのような黙示の労働契約が証明されない限り、直接雇用されることがない、と言うことです。マツダは派遣労働とサポート社員期間を通じて派遣労働法に違反していただけでなく、請負契約にも拘らず、派遣先は直接指示命令をしていたことが裁判で実証され、山口地裁で断罪された。この裁判は違法性を明らかにしただけでなく、労働組合の支援がなければ成立しえない裁判だった。憲法を暮らしに生かすために労働組合が積極的に役割を果たした事例だ」と説明しました。藤田さんは、「労働者の供給事業は給与のピンはね禁止という観点から職安法で違法とされてきたが、1985年に派遣労働法ができ、事実上合法化された。しかし、規制はあり、マツダの場合は請負業でありながら直接、指揮命令していたことが明らかとなり違法が証明された。つまり、労働者との間に直接契約はなくとも黙示の労働契約(指揮命令の関係)=特段の事情(派遣とサポート社員で継続雇用)が証明されて違法となった。こうした例は多くある」としました。
討論では、雇用と人権を守る運動が企業の中に存在するのかが注目される。自治体の職員からは一般市民からどう見られているのかが気になるとの意見も出ました。非正規労働者が声を上げるのは困難ともされるが、そこに労働組合の役割があることも確かです。憲法が生かされる社会にするためには、ルールある社会とするための市民と労働者の共同の運動が求められる。企業の理念実践を追及する運動も必要ではないか?など、憲法に近づこうとする意見が続きました。
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とき:2015年2月7日(土)10時~16時30分
ところ:勤労者福祉センター
2月7日地域人権問題研究集会が開かれ225名が参加しました。県人権連の中島会長のあいさつに続いて、小畑実行委員長(政治学者)が記念講演を行いました。小畑さんは、前回に続いて憲法の中に基本的人権がどう貫かれ、主権者としての国民は憲法上どう規定されているのか、などを安倍政権がやろうとしている改憲の動きと合わせて明らかにし、国民の側からの闘いを提起しました。その上で憲法前文に日本国民とは①国会の代表を通じて行動すること、②諸国民との協和による成果と自由のもたらす恵沢を確保した存在として、③再び戦争の参加が起きることのないよう決意した、と記されていることを紹介しました。
小畑さんは基本的人権とは何か?それは、「自由、生命、財産、幸福追求の権利」だとして憲法理念に沿って説明しました。権力は立憲主義による憲法という縛りを外せば、腐敗し悪魔性が顔を出すことを安倍政権の暴走政治を通じて、かつての明治憲法下での侵略戦争を例に解明しました。また、憲法下での政権には説明責任が伴うとして、安倍政権といえども憲法を守ると言わざるを得ない。勿論、やっていることは正反対だが、国民に代わって法律をつくり国民を縛る立場にあるものとしての責任があり、なぜ?その法律が必要なのかが絶えず問われる。そう意味で権力者は不自由だ。国民の安全と生存を保障するのが権力者に託された責任であり、そのための権力だとしました。
私たちは憲法を暮らしに生かすというが、権力者のやっていることが憲法違反だといっているだけでは何の解決にもならない。憲法は生活や行動の規範にならないという側面があり、そのためにどんな法律をつくるのかが重要であり、国民と権力者との闘争という側面が現れる。「憲法があるから権力者にすべてお任せ」では基本的人権は守れない、と問題を提起しました。
例えば、権力はどこにでもあるとして、小畑氏自身が大学の教員として経験に基づき教育者としての権限・権力について触れました。しかし、その権力は生徒の基本的人権を守るために行使しなければならない。勝手な評価や生徒を自由に操るために使うことは許されず、生徒の勉学・学問研究の自由が保障されることを通じて生徒は教師の権力に伏しているという関係にある。したがって、基本的人権が脅かされるのであればその権力を拒否する。それが選挙であり、国民の権利であり運動だ。それが憲法を暮らしに生かすことであり、基本的人権を守るための不断の努力こそが求められている。
また、権力になんでも依存してしまうと社会は自立しない。権力の力を借りずに住民がつくる自治や社会的な力が権力の不当な介入を阻止することになる。労働争議に警察権力が介入してくるなどの話はよくあること、治安を守るために警察に依存すると個人のプライバシーが犯される危険がある。かつて夫婦喧嘩は民事不介入とされ権力の介入を許さなかった。ところが最近はDVと言う形で家庭内暴力がはびこり出し、家族の自立が崩壊して、家族内での問題解決能力が欠けてくると権力の介入を許す結果になる。この延長線上では一般家庭への権力の介入を許すことを意味する。権力の暴走させないためには、自立した住民や労働組合の運動が権力者の横暴を規制する環境をつくることが必要だと話しました。
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